20世紀を開いたらしい哲学/古川綾①
こんばんは、古川綾です。
きょうは京都シネマでロメールを観たあとお外で震えながら文章書き書きしてました。京都、室内でたばこ吸えるカフェが全然ないんですよね。つらい。
というわけで今回はフッサールについてです。といっても『イデーン』を読んだわけでもなく入門書をちょろっとかじった程度なのですが、まあそこらへんは入門書の入門といったテンションで読んでください。
さて、フッサールのなにが今までの哲学と違ってそれがどう面白いのか?という話なんですが、結論からいうとかれはそれまでの自然科学的なものの見方を変えたんですよね。
現象学的哲学ができるより前、人間が世界に対して取っている態度(世界の見方)は「自然的態度」とよばれていたんですがそこでは対象は認識主体の意識とは関係なくそれ自体として「客観的」に存在するもの(難しく言えばそれ自体でイデアをもっているもの)として認識されていた。
けれど、フッサールはイデアとは対象それ自体にあるのではなく意識のなかで構成されるものではないかと考えた。意識の外側にいわゆる「客観的」世界があるのは違うんじゃないか、と。
で、ここからがフッサールの面白いところなんですが、かれは客観的世界の在り処を考えるのではなくその問題を一度わきに置いちゃうんです。そういった話は置いといて、なぜものがそれ自体として「客観的」に存在するという確信がもたれているのか考えようぜ、という。これがいわゆる構成――世界が人間に現出してくるその仕方――の分析です。
構成について考えたとき、わたしたちは対象をなにか「ひとつのもの」として認識しているがそれはそのつど変化する主観的なものによって与えられているのだとフッサールはいう。けれどその多様な与えられ方に関わらずわたしたちはそれを同一のものとして認識する。ここに多様な与えられ方を超越するなにかがあるのではないか。
この多様な与えられ方を超越する「なにか」をフッサールは「原的(オリジナル)」といいます。たとえば、リンゴをわたしが見ているときそこにほんとうにリンゴがあるかというその実在は疑えるけれど「わたしがリンゴを見ている」というその直観だけは疑えない。だから構成の分析をするときにはこの与えられ方を超越する「なにか」、「原的(オリジナル)」について考えなくちゃいけない。ここはクラウス・ヘルトの読解がわかりやすいので引用します。
だから構成の分析は、原的(オリジナル)な与え方の生起がいかにして意識を動機づけ、そのつどの状況に依存した与えられ方を「超越して」特定の種類の対象へ向かい、その存在を確信する(「世界信憑」)に至るのか、これを明らかにする。
(クラウス・ヘルト『20世紀の扉を開いた哲学 フッサール現象学入門』)
ここからフッサールはさらに対象はそれを認識する意識とのあいだでいかに成立するのか、という話をするんですが、長くなってきたのできょうはこのあたりで…。
以上、フッサールについてでした。
古川綾